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何故日本人はグローバルな場面でコンフリクトマネジメントができないのか?(1)
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何故日本人はグローバルな場面でコンフリクトマネジメントができないのか?(1)

[更新: 2017年03月01日 / カテゴリ: グローバル・コミュニケーション]

同調や共感を大切にしすぎる日本人

多くの日本人は、すべての状況を説明してから最後の最後に結論を言う、「起承転結型」のコミュニケーションがDNAに深く刻み込まれています。先に背景や理由を説明しながら、相手がどう思っているか探りを入れる。そして相手が同調してくれそうなら、ようやく結論を言い、相手が同調しそうになければ、結論はうやむやにして、相手との関係にヒビが入らないようにする傾向があります。極端に言えば、最初から相手の結論に合わせた形で自分の主張を理解してもらおうというコミュニケーションスタイルと言えます。日本では現実に合わせて妥協することが一種の美徳のような雰囲気があり、そういう考え方も後押ししていると言えるでしょう。しかし、このやり方では、グローバルな環境におけるコミュニケーションにおいては、いきなり自分の意見を否定されたりするとそこでお手上げになってしまい、やりとりは展開しないまま終了し、コミュニケーションが成立しないのです。

また、最近は「共感偏重主義」とでも呼ぶべき現象が加速しているのではないでしょうか?テレビを例にとってみます。テレビで圧倒的に視聴率を稼ぐのは「想い」です。日本では「人知れずの努力の裏側」 や「秘話」といったものが必要以上にありがたがられ、もてはやされています。もちろん決して悪いことではないと思いますが、懸念すべきは、それに共感できない人や考え方を排除する傾向が加速している点です。残念ながら、グローバルな環境では「想い」や「秘話」は日本ほど重きを置かれないのです。スポーツ中継のヒーローインタビューでも「想い」は訊かれません。スポーツ選手にとって結果は結果であり、それ以上でもそれ以下でもないと見なされています。また、いわゆる「秘話」を訊くことはプライバシーの侵害にもつながるという考え方も背後にあります。

相手の出方を見る日本人

また、我々、日本人のコミュニケーションのベースは、どちらかというと、「相手がどう出てくるか?」に重点が置かれがちではないでしょうか。これは、日本のメディアの報道も同様だと考えます。「相手側がどのような出方をするのか?」と言うことがメインに取り扱われ、「日本側がどう考えるか」と言うことにはあまり焦点が当てられないのです。外交問題が起こっても、不思議なことにメディアでは「我々がそれをどう捉えて考えているか?」よりも、現地の特派員のレポートが長々と流れ、「これからの動向が注目されます」という紋切り型のコメントで締めくくられる光景が多いことに裏付けられると思います。

典型的な例~「会議」

これらの違いが典型的に現れるのが「会議」です。
日本では、会議の目的は主に情報をシェアすることであり、意見や考え方を調整する場であると考えられてきました。もちろん、その結果として、コンセンサスがとれ、何かしらの提案や合意に至るわけですが、実際にはそのような作業は会議の後、書面でやりとりすることも可能なわけです。また非常に良くあるやりとりですが、
「何かご意見やご質問がある方はいらっしゃいますか?」
「・・・・・・・・・・・」
「いらっしゃらないようなので・・・」
と言う場面で、あまりにも発言がないためにファシリテーターが不安になり、「●●さん、いかがですか?」と水を向けると
「いや、良いご意見だと思いました。ただ、□□の部分はもう少し別のやり方もあるのではないかと思いました。それは・・」という形で発言が行われたりします。

そうなのです。意見はあるのです。皆さんも経験されたことがあると思いますが、時には「良い話だと思います」と言った後にまったく異なる意見が出てくる場合も少なくありません。
これは日本人的には、「自分は違う見解を持っているのだが、まぁ、もとの提案の通りでも、みんながそれでいいなら、敢えて波風立ててまで違う意見を出さなくても良いか」という心情が背景にあるからでしょう。しかし、よくよく考えてみれば、もし、他の参加者も仮にそう思っていたのであれば、この会議では誰も反対しなかったのに、誰の意見とも異なる内容が承認され決定するという摩訶不思議な結果が成立することになります。そして、外国人の外資系企業カントリーマネージャーがこの摩訶不思議な日本の結論の出し方に頭を抱えているケースが非常に多いのです。全員がその場にいて(消極的であったとしても)賛成した案が、なぜ実施に移されないのか???と。(笑い話ではなく、現にそういったご相談を数多く頂くのです・・・)
グローバルな会議の目的は、その場で何かを決定することです。情報のシェアはむしろ会議の前にメールや資料で行うことが前提になっています。意見を調整したり、コンセンサスを取ると言うよりは、異なる意見を会議の場でぶつけ合い、お互いの『違いや問題』を明確にした上で、いかにそれらを克服したり対処したり出来るかを話し合いで決定しようとすることが目的です。ですから、「意見が出ないと違いや問題がわからず、せっかく集まった意味がない」というふうに考えます。つまり、例えどんなにささいな事でも、人前で言うに値しないと思われるようなことでも、会議の場ですべて出し切り、立場や理解や利害の違いがあれば、その上で問題を整理して解決に向かうという姿勢がもとめられています。弊社が提供しているFPA分析の結果でも明らかになっているとおり、外資系企業を初めとするグローバルな環境では、お互いがお互いのやり方に慣れていないためにこの2つのスタイルが入り交じり、混乱が起きることが日常化しています。

なぜこうなってしまうのか?

これらの理由は、一言で言うなら、日本人は対立を避けてきたからです。日本人は、元来、対立と向き合うことが苦手です。さらに言えば、向き合う以前に、「対立していることを対立していると認める自己認知すら苦手」だと言えます。「和をもって尊しとする」という考えが浸透しており、結果として「対立」は良くないことというマイナスイメージがあるからです。しかし、果たして日本人同士には対立は存在しないのでしょうか?言うまでもなく、そんなことはあり得ません。さらに言えば、表だった対立よりも、日常の中では、隠れた対立の方がより多く存在しているのではないでしょうか。例を挙げてみましょう。日本語に特有な言い回しとして、「それでいいです」という表現があります。これは、「いいです」と言いながらも「本当に良いと思っているわけではない」と言う意味を暗示的に相手に伝えたいときに使われる表現だと言えるでしょう。この消極的な賛成も、突き詰めれば「隠された対立」に他ならないのです。
感情的にならず、物事と自分をできるだけ切り離して見つめ、その事象に向き合い、自分の考えや立場をきちんと述べる。先程の会議の例であれば、ささいな違いでもきちんと明示的にテーブルの上に出してみる。それをやらないことは、「隠された対立」になり、例え微妙な差であったとしてもそれらが積もり重なり、うまく解消されないままであれば、大きな機会損失になります。

しかし、対立はこれからは異質な力と価値を引き出すための源泉です。
そして、厳密に言えば対立とコンフリクトは違うものなのです。
タスクに関して、異なる複数の意見、視点があることから発生する理性的なコンフリクト。
異なる意見のぶつかり合いによって、新しいアイデアや価値、イノベーションが生まれる可能性を秘めた「良い対立」が存在します。
では、「良い対立」とはどのようなものなのか?我々がそれに向かっていくためにどのような心構えを持つべきなのか、稿を改めて書いてみることにします。
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