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部下が自発的に動かないのは上司の役割が激変していることに気づかない『昭和型マネジメント』だから?
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部下が自発的に動かないのは上司の役割が激変していることに気づかない『昭和型マネジメント』だから?

[更新: 2018年10月22日 / カテゴリ: リーダーシップスキル]

いかに部下に自発的に考え、動いてもらうようにするか?

リーダーシップ開発プログラムをご提供する際に、休憩時間や終わった後に半分愚痴混じりに良くいただくコメントがまさにこれです。

「部下が指示待ちで困るんですよ・・・」
「どうして、こちらが言ったとおりにしか動かないんですかね?」

「自発的に動け!」と言って動くなら、誰も苦労はしません。かけ声だけでは人は自発的には動かないのです。では、人が自発的に動くときに、何が重要な要素なのでしょうか?
いくつかの要素を見ていきたいと思います。

1)「心理的安全が確保されている」

今や非常に有名になりましたが、Googleのプロジェクト「アリストテレス」でわかったことです。生産性の高いチームの特徴を様々な観点から調べたところ、メンバーのスキルの高さでもなく、経験値の豊かさでもなく、そのチーム内において、「心理的安全性」がきちんと確保されているということが一番重要な要素だったという調査です。「心理的安全性」とは、自分という人間がその場にいる仲間達に受け入れられ、共感され、理解されているという状態を指すとされています。つまり、斬新なアイデアを出したり、今まで習慣的に行われていたルーチン的な作業に対して、そもそも論を投げかけてみても、威圧的に叱責されたりせず、意見が排除や無視されずにきちんと採り上げられるというような、節度は守りながらも、自由闊達に意見が言える組織風土がまずは重要だという点です。その為には、まずは上司の方のマインドセット=心構えが変わる必要があります。

相手を変えようとするなら、まずは自分から変わらなくてはなりません。先ほど述べた、メンバーの心理的安全を確保するためには、上司がまずはチームメンバーのありのままを受け入れ、認め、尊重するという姿勢が重要になってきます。つまり、上司の前でも、チームの中でも、ある程度は何を言っても、何をやっても大丈夫なのだ、許されるのだという心理的安全を確保することが、実は自発性の第一歩なのです。
大脳生理学からも、論理やロジックは大脳新皮質、心理的安全は大脳辺縁系が司ることがわかっています。どんなに論理が正しく=大脳新皮質が納得しても、生命の安全を司る大脳辺縁系が納得しないと人は本当の意味で動かないのです。どんなに理屈は正しくても、心理的安全が確保されていない組織風土では、人は動きません。ある程度の本音が言える職場は活気があり、長い目で見ればイノベーションも生まれやすい職場であると言えるでしょう。

「私たちの大脳新皮質は過去5万年間もメジャーアップデートされていない」~ジェイコブ ステイン

2)【上司は偉い】から脱却し、「役割としての上司」へ

・上司の役割が大きく変化していることに気づかない、『昭和型マネジメント』

心理的安全が担保されるということを、日本におけるマネジメントスタイルの変遷という観点から考えてみることにします。

大量生産 『上意下達の徹底度』を追求するマネジメント

戦後の高度経済成長~バブル期は、人口が急増し、ビジネスがどんどん拡大する、いい時代でした。「人口急増・画一的社会の中で、よいモノを作って頑張れば売れる時代」だったわけです。
この当時のマネージャーの役割は、いわゆる「上意下達型」でした。経営者が具体的な指示・命令を下ろし、中間管理職はそれをかみ砕いてメンバーに伝える。そして、メンバーから上がってきた報告・連絡を経営者に伝達するという役割です。ちなみに、この「上意下達型の」マネジメントは、もともとは、大量生産・大量消費を前提とした、フォード型のビジネスモデルに端を発しています。

実は、このマネジメント手法では、中間管理職が行うマネジメント業務そのものはさほど難しくありません。上からの指示を下に降ろし、下で何が起きているかをまとめて報告するだけです。昔話ではありますが、そうしたマネジメントスタイルに固執し続けるマネージャーは『ホチキス・マネージャー』(つまり、上司からのレポートをホチキスで留めて上司に社内便で送るだけ)と揶揄されたものです。

もちろん、実際には指示を出してもメンバーが思い通りに動かなかったり、「上と下の板挟み」になったりして、当時の中間管理職にもそれなりの苦労があったと思います。それにしても、とにかく出来ていないことは完成形に一歩でも近づけ、出来ているものはより完成度を高める。他社よりも品質の良いものより多く世にリリースすることがビジネスの生命線でしたから、当時は「心を鬼にして、いかに徹底度を1ミリでも高めるか」がマネジメントの肝要だったのです。当時は、『上意下達の徹底度』が高い企業ほど好業績であり、それが優良企業だと称賛されていましたが、現在の日本でそれをやっている企業は「ブラック企業」に分類されるようになりました。今となれば隔世の感があります。
●バブル崩壊~停滞期のマネジメントスタイル

そして、1990年代に「バブル」が崩壊し、それを境に日本経済は長い停滞期に入ります。1997年に起こった山一證券の破綻や、不良債権処理、住専問題などは、その時代を象徴する出来事であり、世間が冷や水を一度に浴びせられたような空気に包まれていたことを覚えています。こうした経済状況の中で、企業は防衛的な経営に大きく舵を切りました。売り上げが伸びない中で、どうにかこうにか利益を出す手段として徹底的な「省力化・合理化・コストダウン」に血道を上げました。このビジネス状況に端を発するのが「数値目標管理徹底型マネジメント」です。

経営者は、「省力化・合理化・コストダウン」を実現するべく、なるべく具体的な数値目標をKPIとして設定して現場に下ろすようになりました。大量生産大量消費の頃のマネジメントはどちらかというと精神論が主体でしたが、この時代は、良くも悪くも具体化された数値が目標となってしまったのです。そして、中間管理職は、現場に下りて部下と一緒に数値目標を達成する「プレイングマネージャー」になったのです。何よりも、職歴が長く、ベテランであるプレイングマネージャーは、目標を達成することには一番長けています。この結果、数値を達成するためにプレイングマネージャーが一番頑張るというマネジメント放棄とも言える状況が発生し、さらには、自分が優秀なプレーヤーであるが故に『どうして自分のようにおまえは出来ないのだ?』と詰問し、部下を追い詰めるケースすら起こるようになっていきました。
つまり、プレイングマネージャーは、自分が優秀なプレーヤーであるが故に、どうしても目先の数字を追いかけるようになり、結果的にメンバーの育成やチームワークといったことをないがしろにし、「とにかく売れるものを売る」「数字の辻褄を合わせる」ことに懸命になりました。また、当時は「上意下達型マネジメント」が残っている企業もかなり多かったため、上意下達の徹底度が高い風土と、この数値目標追求型が悪い方向に相乗効果を起こし、結果的には会社ぐるみでコンプライアンス違反を起こしたケースも多く見られました。
上記の大量生産・大量消費型ビジネスモデルに端を発する『上意下達型マネジメント』と、「省力化・合理化・コストダウン」というビジネス状況に端を発する「数値目標管理徹底型マネジメント」とそこからから派生した「プレイングマネージャー」に共通する点は、

・自分は優秀であるという固定観念
・職位が上なのだから、自分は偉いのだと権威を振りかざす

という勘違いと固定観念から来る、威圧的・高圧的な態度およびそれが作り上げる組織風土 という点ではないでしょうか。

いささか本論からは離れますし、あまりここで詳細に触れることはこのブログの趣旨から外れますので、避けますが、昨今のスポーツ界で起こっている不祥事はまさにこれらの要素と共通するところがあるような気がしてなりません。

上司が権威を持ち、それを振りかざし、威圧的かつ高圧的なマネジメントが機能していた時代はとっくに終わっているのです。しかし、それにもかかわらず、平成も終わろうとしている今、依然として会社で幅をきかせているのは、大変残念ながら『上意下達型マネジメント』と「数値目標管理徹底型マネジメント」とそこからから派生した「プレイングマネージャー」型マネジメントという旧態依然とした昭和型のマネジメントスタイル(と、それに合わせた働き方)なのです。そのような状況で、多様なメンバーが心理的安全を感じることが果たして可能でしょうか?

多様なメンバーの多様な意見やアイデアを尊重し、メンバーが心理的安全を感じていろいろな議論を健全に戦わせることができる土壌。そして、マネージャーがメンバーにおもねることなく、そして、最終決定の局面においては、必要に応じて腹を決め、責任を持って決断する。

上司としての権力を振りかざすことなく、上司というのは権力や権威ではなく、あくまで一つの役割に過ぎないのだ という意識を持つことが部下が自発的に考え、動き出すために必要なすべての始まりだとWorldArxは考えています。
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