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「学ぶ」と「真似る」の違いから考える、これからを生き残るための本当の「学ぶ力」とは?
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「学ぶ」と「真似る」の違いから考える、これからを生き残るための本当の「学ぶ力」とは?

[更新: 2017年07月13日 / カテゴリ: 学びの行動定着]

真似ることで成長できていた時代は終わっていた

今回は少しエッセイ風です。長文ご容赦ください。

現代の企業においては、大変残念ながら事実として、人材開発ということに対する取組みが、ひどくやせ細ってしまったと言えるのではないでしょうか。「会社は教育機関ではない」という発言もあちこちで散見され、また「これだけ人が減って業務が増え、非常に多忙なときに、人材育成や教育に割いている時間はない」という声も頻繁に耳にします。そして残念ながら短絡的に「即戦力」を求める風潮も非常に根強いと言わざるを得ません。

●真似ることで成長できていた時代は終わっていた

また、いまだに「昔は放っておいても人は育ったものだ。」「上司の背中を見せておけば人は育つものだ」という趣旨の発言をされる経営者の方もいらっしゃいます。
WorldArxは、人が一番育つのは、以下の3つの条件が揃ったときだと考えています。

1)背伸びしなければ結果が出せないレベルの仕事の機会が与えられる
2)周囲(上司や先輩)の協力を仰ぎながらやり遂げる
3)周囲(上司や先輩)によって振り返り(対話・リフレクション)をする
これは今も昔も変わらない、人材育成の普遍的な要素であり、1)2)3)が回っていくプロセスが人が育つプロセスだと考えます。

確かに大変幸いなことに、かつての日本企業では人事や上司が特に意識しなくても、この3つの要素とそれらが回る環境が自然と揃っていたのです。高度経済成長期には成長する市場の中で様々な会社が切磋琢磨する中で1)のような仕事はおのずと増えていきました。そして良し悪しは別として、上司や先輩と朝から晩まで文字通り机を並べて長時間労働を共にしているので日常のやりとりの中で2)の観点での相談もしやすい環境がありました。さらに3)に関しては、本人たちにその意識はなかったかも知れませんが、ほぼ毎晩?のように行われていた「飲みニケーション」が自然と対話と振り返りの場になっていたのです。つまり、部下は上司や先輩を「ロールモデル=正解」に据え、やり方を真似ることで仕事のやり方を身に付けていたと言えるでしょう。
少し視野を広げて考えてみると、昭和の高度成長時代には、先進技術や新しいビジネスコンセプトは欧米から来るものでした。我々が「先進国」の真似をして、「追いつけ追い越せ」で大きく成長した時代であったとも言えるでしょう。その時代、欧米がまさに日本にとって「正解」でした。いわゆる当時のアンテナの高いビジネスマンは、海外で出版された最新のビジネス本を出張先や個人輸入で入手し、その中に書かれているビジネスモデルやコンセプトを我先にと学んでいました。ですから正解を知って真似ることが、老若男女を問わず「国是」だったのです。そして更に言えば、日本の教育システムが「正解」を求めることに重点を置いていることもそれに拍車をかけていたと言えます。

しかし、今はそうした前提が変わっています。「正解を真似る」ことが通用していた時代はおよそ20年前、おそらくバブル崩壊と共に終わっていたのでしょう。欧米を追い抜いて世界一になったと意気軒高だったその時、我々の前にはもはや「真似すべき正解」は消え失せていたのだと思います。自分の頭で考え、自分たち固有の真の課題を見つけ、自分たちなりの優先順位・劣後順位を考え、そして自分達に合ったやり方で対応し、学ばなければならない状況がやってきていたにもかかわらず、やり方を変えずにもはや存在しない『真似るべきロールモデル探し』に時間とリソースを投入し続けてきたとも言えます。

そして今起こっていること

最近、大学で講義をするようになって肌で感じていることは、今の学生達にとって学ぶという行為が「目の前に出される課題を真似しながらどうにかこうにかやっつける」ことと同義語になっているということです。すべてのケースがそうだとは申し上げませんが、たいがいは目の前の課題を(教科書やネットや友達の答えを見て)なんとか真似てしのぐと、もう忘れてしまうのです。次回の授業の初めに、前回の内容の振り返りをするのですが、受講生の記憶の中からは見事と言って良いほど前回の内容が消えていることに驚きます。こちらも講師と言うよりはファシリテーターという振る舞いを意識し、受講者にはグループで討議し、グループ演習で手を動かしてもらって理解し、その内容をレポートにまとめて提出してもらっているにもかかわらず、おぼろげな印象は残っていても、知識はきれいさっぱり抜けているのです。唖然とするほど見事な記憶の断捨離を目にするのです。考えてみれば、「正解となる知識を暗記してすばやく問いに答える」ことを良しとする受験競争では、ほぼ全ての問いに『正解』があり、それにどれだけ近づくかが求められてきたのであって、それをたくさんこなすことが至上命題となる以上、上記の記憶の断捨離はある種当然の帰結とも言えます。つまり、どれほど巧みにたくさん真似られるかが最重要命題であるわけです。
しかし、ビジネスの現実世界においては、「VUCA【Volatility(不安定)Uncertainty(不確実)Complexity(複雑性)Ambiguity(曖昧性)】」な状況に日々直面し、複数の価値基準がしばしば錯綜してトレードオフが生じる中で、ほとんどの場合、正解のない問いに答えて決断していかなければなりません。正解の無い世界では、真似ることは本来出来ないはずなのです。

「真似る」から真の「学ぶ」へ

私は日本の教育制度を論じるつもりはありません。先述の例でお伝えしたい本質的な点は、「学ぶ」という行為がいつのまにか無意識に「真似る」という行為にすり替わってしまいがちだという点です。

私はこの稿では「学ぶ」と「真似る」という言葉を意識して区別して使っています。実は、真似るということは、人間は乳児の時から可能なのです。霊長類の脳にはミラー・ニューロンというものが備わっており、他者の動きをそのまま真似ることができる仕組みが元々出来るようになっているのです。この機能があることで、真似ることにより、幼児は運動能力を身につけ、感情を理解し、育っていくのです。しかし、生まれつきそれが出来るということは、そこには本能はあれども、目的意識はあるのか?という点がポイントになります。つまり、真似ると言うことは本能の一部であり、目的意識を伴わないものである場合があると言うことです。

一方で本来、学ぶことや習うことには、目的意識があるはずです。そして学びには、必ず言語による伝達が伴います。見よう見まねという言葉があるとおり、真似には言語は必須ではないのです。学ぶと言うことをもし数式的に表現するならば、こういうことになるのでは無いでしょうか。

学ぶ=目的意識+基本的な概念理解(=言語化・体系化)+反復練習

これが「学ぶ」ということの基本構造だと考えています。これはビジネススキルやリーダーシップスキルといった狭義の話でも無く、スポーツや音楽の習得にも通じるでしょう。学びは、振り返りを通じて、自分の中の不足や未熟を自覚することで強化され、言語化され、体系化され、内化されます。先述した人が育つサイクルの中で申し上げるなら、「3)周囲(上司や先輩)によって振り返り(対話・リフレクション)をする」部分が本質的な「学び」に通じる部分だと言えるでしょう。

学ぶことの本当の目的と、真の学ぶ力とは?

企業において、数多くのトレーニング、ワークショップ、研修においてファシリテーションを重ねることで、学ぶ内容をうまく吸収し実践する人と、そうで無い人の共通点が見えてきたように思います。上手に学ぶ人は全体の構造を見る力があると感じます。そして自分との違いを考えた上で、自ら取り組むヒントを探しだします。いわば、自走的です。一方、真似る人は、検索エンジンで答えを探すかのごとくすぐ正解を探し、わかりやすくかつ取り入れやすいものを見つけ出そうとします。つまり、学ぶ人は大局的に学び応用する。そして、自分ならどうするかを考える。真似る人は、表層的な部分しか取り入れられず、結果的に応用が利かないために実践を放棄し身につかないということが起きている気がします。

つまり、学ぶということは「共通性を洞察し、言語化する力」つまり、「学ぶ力」の基礎は抽象化能力だと言えるのでは無いでしょうか。そしてその力が弱いと、学びが真似に陥りやすいと言えると思います。

自己再定義のような話になってしまうのですが、学ぶ力を身に付けるためには、「学び方を学ぶ」必要があると言うことだと思います。
つまり、人材育成や教育の目的は、「自分自らが『学ぶ力』を身につけること」ではないのでしょうか。「会社に言われたから。」「学校の単位が必要だから」という発想は安易な「真似」に結びつきやすく、真の学ぶという行為にはつながらないのではないでしょうか。

働き方がますます多様化する中で、会社にも頼らない、国にも頼らない、そして自分で自立できる能力を作る。WorldArxはあらためて、そういう視点を持つ人々を大事にし、小さな方舟(Arcs=Arx)ではありますが、共に荒波の中を航海していきたいと考えています。
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